私がベジタリアンをきちんと意識したのは19歳くらいのころ、宮沢賢治の「ビジテリアン大祭」を読んだ時。
そもそもなんで菜食主義なのか、それに、じゃあどこまでなら食べてどこから食べないのか、彼らの考えをようやく理解して目から鱗が落ちたのでした。
それから更に数年が経ち、もともと食べ物に興味のあった私は食に関する映画を選んで観たり、またWFPのボランティアとして世界の食料問題について学ぶようになってゆく。
そして、映画「いのちのたべかた」の中で、牛の屠殺シーンを直視出来なかった時、
また、「フード・インク」や「スーパーサイズミー」で、工場のような場所で育てられ、出荷されてゆく鶏たちを観た時(そしてマクドナルドの裏側を見た時!)、
しかもうちは実家で鶏を飼っているが、産んだ卵だけ食べて鶏肉はスーパーで買っている!と思った時、
フォアグラ用の鴨の育てられ方を映像で観た時、、、
自分の中に決して小さくはない「違和感」が生まれたのでした。
それからもう一つ、私の中で引っかかったのは、食糧問題としての肉食について。
私たちが肉を食べるということは(牛乳や卵もそうだけど)、同時に家畜の飼料になる穀物も水も、大量に食べているという事実、、、
そんな違和感を感じながらも、それらは、自分の中でその後数年に渡って棚上げされることに。
なぜかって、その時は単純に「肉が食べたい」と思っていたから。
我慢してまでベジタリアンになるつもりはなかった。
ここで誤解の無いよう言っておきたいのは、私の感じた「違和感」とは、
①肉食そのものに対するそれでなく、自分では殺せない生き物を食べている、という事への違和感
②自然とはおおよそかけ離れ過ぎた環境で育てられた動物を食べることへの違和感
なのです。
これを説明した上で、でも現代社会で、これらに逆らってでも肉を食べ続けるのはかなり難しい。
でも肉は食べたい。
だからずっと自分の中で棚上げして、つまり、考えないようにしていたわけです。
それが今年に入って少し経った頃に、わざわざ自分の手で棚から下ろしてしまった、、、
きっかけはごく小さなことだったのだけど考え出したら止まらなくなってしまって、そのまま、もうすっかり肉を食べたいとも思わなくなってしまった。
まさかこんな風になるとは自分でも想像していなかったので最初の方は半信半疑、でも自然に今も続いているから本当らしい。
しかしこの現代社会で、ベジタリアンを貫くのはなかなか容易ではありません。
周りに自分の哲学を押し付ける積りもないので家族のためには肉を料理するわけで、その際の味見もするし、また外食で肉なしのメニューを選ぼうと思っても意外と無い。肉が出て来たら、それを残すのもまた違うと思うので、誰かに上げたりもするけれど場合に依っては食べることもあるわけです。
自分から肉を選ぶことはないけれど、必要であれば食べる。
ほとんど精神的なベジタリアンと言っていいかも。
でもそれくらいが、この社会で生きていくのにちょうどいいかなと思います。
どちらかに偏りすぎて他を受け入れないというやり方は個人的に好みではないし、無理をしすぎると矛盾が生じてくると思うから、、、
そんなこんなで、ごく自然な成り行きで、何かを我慢することもなく私はベジタリアンになったのです、厳密にはノンミートイーター(肉は食べないが魚介、卵、乳製品は食べる)、セミ・ベジタリアン(他の人より少ない肉食をする)というところだけれども。
と、、、そんな流れでした。
そうそう、一つ言いたいのは、私は肉を食べる人に対して、いやぁね〜、とか、そんなふうなことは思っていません。私もつい最近まで食べていたし、、、そうでなくても、今後も、目の前で肉を食べられるのが嫌だってことにはならないと思うし、なりたくもないなぁ。
こんなに沢山書いても、私の肉食に関する考えはまだまだ書ききれないけれど、とりあえずこんなところで今日はおしまい。
また、書きたくなったら書きます。
実家の鶏。
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